-
豊臣秀吉朱印状(豊太閤三国処置太早計)
¥66,500
【基本情報】 一巻 豊太閤三国処置太早計 豊臣秀次宛 (原本)天正二十(一五九二)年五月十八日 本紙縦44糎 横296糎 総丈縦46.3糎 横330糎 紙本印刷 巻子装 箱入 【状態】 本紙に折れ 軸付近の裏打ち紙にシミ 箱の底面にひび割れ 【翻刻】 (本文) 長文のため省略 名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 五』(吉川弘文館、二〇一九年)に翻刻文あり(第四〇九七号文書) (本紙裏) 秀吉公 (箱上書) 太閤殿下軍旅の令書 関白秀次公宛 【商品説明】 本品は太閤である豊臣秀吉(一五三七〜一五九八)が文禄の役の際に、甥で関白である豊臣秀次に宛てた朱印状のレプリカである。 原本は前田育徳会尊経閣文庫所蔵本で、宮内庁書陵部図書寮文庫には同品のコロタイプ版が所蔵されている。またそう時代が下らない写しとしては河内将芳氏所蔵本がある。 旧蔵者による添状が付属しており、東京国立博物館にも勤務した堀江知彦氏による鑑定結果も記されている。それによると本文の筆跡は秀吉のものではなく、右筆が書いたものであるが、落款は秀吉本人によるものということで、歴史的第一級の史料なので代々家宝として所持するという旨が記されている。 しかし、前述のとおり、原本が前田育徳会尊経閣文庫に所蔵されているため、本品はレプリカである。 堀江氏の鑑定結果について、本朱印状の存在自体は早くから知られていたが、専門が異なるため堀江氏はご存知なかったのか、また印刷と見抜けなかったのかは、この文面だけでは把握しかねる。また印刷だと堀江氏が鑑定していたとしても本添状を残した旧蔵者が本品を高額で売却したいがために敢えてそれを伏せた可能性も充分にありうる。 また本品については昭和二(一九二七)年に前田育徳財団から『尊経閣叢刊』の一つとして「豊太閤三国処置太早計」の複製約二百部が作製・頒布されており、さらに堀江氏の東京国立博物館在職中にあたる昭和十三(一九三八)年には三百部が追加作製されており、本品はこれに該当する可能性がある。しかし、原本の箱の蓋裏には「豊太閤三国処置太早計」などと貼紙があるが、本品の箱には原本の箱と共通する貼紙などが一切なく、解説もないため、異なる可能性もあるが、旧蔵者が高額で売却したいがために箱を替え、解説の代わりに堀江氏の鑑定結果を仮託した添状を付属させたとも考えられる。 だが本紙は原本とほぼ同じ法量で、忠実に再現されており、展示施設がない前田育徳会尊経閣文庫所蔵の原本はなかなか見られないため、このような複製品の存在はとても重要である。 天正二十年(十二月八日に「文禄」に改元)三月、秀吉は十六万の兵を朝鮮に渡航させ、四月に朝鮮への攻撃が始まり文禄の役が始まった。五月三日には朝鮮の都漢城(ソウル)が陥落し、朝鮮国王は逃亡した。同月十八日、その報告を出陣基地の肥前名護屋で受けた秀吉は、明征服の後、後陽成天皇を北京に移し、日本の天皇は良仁親王か智仁親王とし、秀次を中国の関白に、日本の関白には羽柴秀保か宇喜多秀家を任命し、秀吉自身は日明貿易の港であった寧波を御隠居所とし、朝鮮は羽柴秀勝か宇喜多秀家に与えるなどの大陸経略構想を関白であった秀次に示したのが、本朱印状である。本朱印状は秀吉の「三国国割構想」と関連し、古くから注目されている。 (参考文献) ・国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第一〇巻(吉川弘文館、一九八九年)「豊臣秀吉」の項(朝尾直弘氏執筆) ・国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第一二巻(吉川弘文館、一九九一年)「文禄・慶長の役」の項(北島万次氏執筆) ・「関白宛覚(尊経閣古文書纂 征韓文書)(天正二十年〈一五九二〉五月十八日付)」(『豊臣秀吉文書集』五 第四〇九七号文書) ・前田育徳会尊経閣文庫編『尊経閣古文書纂 編年雑纂文書四』(尊経閣善本影印集成八七)(八木書店、二〇二四年) ・平川新『戦国日本と大航海時代ー秀吉・家康・政宗の外交戦略ー』(中公新書 二四八一)(中央公論新社、二〇一八年) ・柴裕之編『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版、一九八七年) ・遠藤珠紀「新たな山中長俊書状写と豊臣秀吉の「唐入り」構想」(『古文書研究』第九十三号、二〇二二年)
-
里村紹巴元三試筆
¥106,000
【基本情報】 一幅 慶長元年の大晦日の詠と慶長二年の歳旦句 慶長二(一五九七)年元三 本紙縦27.5糎 横36.8糎 総丈縦118.1糎 横55.2糎 紙本墨書 軸装 箱無し 【状態】 天に薄らとシミ及び虫損 風帯に虫損と破損(千切れ) 本紙に折れ・虫損 地に虫損 【翻刻】 (本文) 相坂の山下に隠住して慶長/元年の晦日 なからへて憂山すみも七十年の/三冬の暮のおしまるる哉 慶長二年/元三試毫 谷も今朝けそならぬ春の日かり哉 七十三歳/紹巴 【商品説明】 里村紹巴(一五二四または一五二五〜一六〇二)は 室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した 連歌師である。 周桂・里村昌休・三条西公条などに 連歌・和歌・古典を学び 昌休没後は里村家を護り 昌休の子である昌叱を養育した。 そして当時の連歌界を代表した谷宗養の没後は その道の第一人者として活躍し 公家・武家・寺家を問わず多くの人々と交渉があった。 なお生存中に里村姓を称した形跡はなく 里村紹巴と呼ばれるのは 江戸時代になってからと考えられている。 本品は紹巴が文禄四(一五九五)年に起きた 豊臣秀次の事件に連座し 近江国園城寺(三井寺)の前に蟄居させられていた 慶長二(一五九七)年の元三に書いた 試毫(書き初め)である。 阿蘇大宮司惟前の子内記惟賢(玄与入道黒斎)が 記した紀行文『玄与日記』によると 玄与が慶長二年正月に歳旦句として 「こそたちて今朝光そふ春日哉」の発句を詠み 七日にこれを発句として独吟の百韻を詠むと 批評をしてもらうために 使者を紹巴のもとへ届けさせた。 その帰りに紹巴から預かった詠草には 酔った挙句の狂句とともに 歳旦句と紹巴七十三歳の年の暮れの晦日の詠として 掲出の「谷も今朝よそならぬ春の光かな」と 「なからへて浮山住も七十のみ冬の暮のおしまるるかな」 が書き付けてあったとある。 また歳旦句は『紹巴発句帳』(明治大学図書館本)の 四十五句目にも載せられている。 掲出の歳旦句と大晦日の詠に関して 先行研究によると 他にもこれらの句や詠を記した 紹巴の自筆史料がいくつか現存しており 前者には「試筆」として歳旦句をあげた後に 「相逢山下閑居にして 七十三歳 紹巴」とあるもの。 後者には「慶長元年」と年号が入れてあり 詠の第三、四句が「七十年の三冬の暮の」とあるもの。 「相坂山のほとりの隠家にして慶長元年の晦に独酌酔中之口号 七十三歳 紹巴」という詞書のあるもの。 「於三井寺辺 慶長元年也」の詞書を含めた賛がある紹巴自画像。 「七十三年歳暮三井寺辺にて」の詞書を持つ短冊(慶應義塾大学所蔵のものか)がある。 また紹巴は 天正十(一五八二)年〜天正十一(一五八三)年を境に 年齢の数え方が一年ずれることが知られているが 上記にあげた自筆史料からもわかるように 天正十一年以後も 天正十年以前の数え方をしているものがある。 本品も天正十年以前の数え方をする史料 (両角倉一氏の研究によると甲群に属する)である。 (参考文献) ・国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第六巻(吉川弘文館、一九八五年)「里村紹巴」の項(奥田勲氏執筆) ・国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第五巻(吉川弘文館、一九八五年)「玄与日記」の項(原口虎雄氏執筆) ・小高敏郎『ある連歌師の生涯ー里村紹巴の知られざる生活ー』(至文堂、一九六七年) ・両角倉一『連歌師紹巴ー伝記と発句帳ー』(新典社研究叢書 一四四)(新典社、二〇〇二年) ・綿抜豊昭『連歌とは何か』(講談社、二〇〇六年)
-
厳如光勝和歌懐紙
¥58,000
【基本情報】 一幅 旭圓如鏡 江戸〜明治時代 本紙縦35.4糎 横48.0糎 総丈縦125.5糎 横62.3糎 紙本墨書 軸装 箱入 【状態】 天(特に左側)に大きな赤茶色のシミ 風帯裏に赤茶色のシミ 本紙に折れ・少し汚れ 地に赤茶色のシミ・少し汚れ 箱の側面のうち一面破損 【翻刻】 (本文) 旭圓如鏡/光勝 出る日の本の/ひかりは萬代も/うつりらはらぬ/かかみなるらむ (外題) ⬜︎法主/厳如上人/⬜︎和歌/旭圓如鏡 (箱上書き) 真旡量院殿御懐紙〈出る日の〉 【商品説明】 現在の真宗大谷派(本山は東本願寺) 第二十一代門首にあたる 厳如(諱:光勝)(一八一七〜一八九四年)が 旭圓如鏡と題し詠んだものである。 この和歌は厳如の十七回忌を記念として 元華族の向陽会によって作られた厳如の歌集である 大谷内事局編『枳殻の花』(一九一〇年)の 下巻(原題『からたちの花』)の 雑歌の章の第一首目に採録されている。 厳如やその父である達如は有力な町人に対し 自製の和歌を短冊などに記して与えており これら短冊の類を下付されたときの礼金は 五百疋(近世後期では約二両分)ぐらいであった。 他にも厳如は 幼少期から絵画や彫刻に非凡な才を持っており それらも東本願寺の再建資金調達に 大きく役立ったと言われている。 (参考文献) ・国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第六巻(吉川弘文館、一九八五年)「厳如」の項(柏原祐泉氏執筆) ・柏原祐泉など監『真宗人名辞典』(法蔵館、一九九九年)「大谷光勝」の項 ・「大谷大学図書館古典籍データベース」『枳殻の花』(宗大2813)の項 ・奈良本辰也・百瀬明治『明治維新の東本願寺』(河出書房新社、一九八七年) ※写真画像にある『枳殻の花』は付属しません。
大阪府公安委員会許可
第62105R050655号
切通広貴